歩 「はーい、お待たせしたわね」
と、いい匂いの元が居間に運ばれてきた。
運んできたこの人は、[蒼森/あおもり][歩/あゆ]。
俺たちがお世話になってるこの家――蒼森家の一人娘だ。
年齢は俺たちの一つ上で、この家の家事全般を取り仕切っている。
蒼森の家は、歩さんのご両親が忙しい人で家を留守にしがちだ。
蒼森のお祖父さんとお祖母さんもいるけれど、この家の別棟で暮らしていて、こっちにはほとんど顔を見せたことがない。
そんな状況なので、家の中のことに関しては実質、歩さんがこの家の主であり中心、という感じだ。
まあ、ざっくり言ってしまえば、俺や渚沙のお姉さんみたいな人である。
歩 「今朝は涼太さんも早いんですね。お姉さん、早起きな子は好きですよ」
涼太 「はあ、どうも……」
歩 「世話を焼かせるお寝坊さんも嫌いではないですけどね。いい感じに両方をこなしてくれると嬉しいです」
涼太 「ど、努力してみるっす……」
渚沙 「地味に無茶なこと言うわよね……」
優しくて世話焼きでお姉さん的存在――ただし、俺たちを困惑させて喜ぶようなところも有り。
それが、蒼森歩さんというお方だった。
歩 「さあ、いただきましょうか」
涼太 「いただきます」
俺と渚沙は同時に手を合わせると、歩さんに小さく頭を下げた。
和風の美味しそうな朝食が並び、湯気を立てている。
料理もすべて歩さんがつくっていて、俺たちに手出しは許されてない。
できれば手伝いたいんだけど、歩さんが“家事は私の仕事です”と言い張ってるからなあ……。
渚沙 「はー、朝から美味しい食事が自動的に出てくる喜び……」
渚沙はすっかりこの環境に慣れてしまっている感もあるが……。
とは言え渚沙は小さい頃、むしろ忙しい母親に慣れない手つきで朝食を作ったりしていたらしい。
そんな経験があると、朝食を作ってもらえるという喜びもひとしおなのかもしれない。
歩 「うん、今日も上手にできました」
涼太 「今日も……うん、美味いよ。本当に」
俺がつたない言葉で朝食を褒めると、そんなものでも歩さんは嬉しそうに笑ってくれた。
いつからだったか忘れたけれど、俺はなるべくこういうことを口に出していこう、と決めた。
……蒼森家は、この町でも屈指の名家だ。
だからと言って作法にうるさいわけでもないけど、この家で育った者として、最低限礼儀くらいはわきまえたい。
歩 「そういえば、涼太さん、渚沙さん。さっき、ずいぶん楽しそうにお話ししてたみたいですが、いいことでもあったのですか?」
涼太 「え? い、いや、別にいいことは……」
渚沙 「楽しそうに聞こえたの……?」
歩 「お二人が仲がいいのはいつものことですけど、今朝はひときわ、という感じでしたよ」
渚沙 「……えーと、別になんでもないわ。たぶん、歩さんの気のせいよ」
歩 「あら、そうなんですか?」
歩さんは、あまり納得いってない顔だ。
渚沙 『ちょっと、リョータ。わかってると思うけど……』
涼太 『おっ……』
頭の中に、渚沙の声が響いてくる。
涼太 『ああ、覗き――さっきのことは内緒ってことか?』
渚沙 『当たり前でしょ。歩さんもだけど、誰にも言っちゃダメだからね』
涼太 『別に言いふらさないけど……なんでだ?』
渚沙 『人に知られたらお嫁に行けなくなるからよ!』
涼太 『そんな大げさな……』
渚沙 『もしバラしたら、リョータのところに嫁に行くからね!』
涼太 『どんな脅しだ!?』
渚沙 『以上、通信終わり。アウト』
俺の頭から、渚沙の声が――引き上げていく。
聞こえてくるときは唐突だけど、通信が終わったときは、なんとなくこっちにもわかるんだよな。
あ、いなくなったな――って。
歩 「あら、二人とも急にずいぶんおとなしくなりましたね。なにか味に問題でも?」
涼太 「まさか。いつもどおり、美味いです。もう俺、この味で育ったと言っても過言じゃないし」
渚沙 「おかげで、すっかり舌が肥えちゃったけどね」
歩 「あら、そんなに褒めてもなにも出ませんよ」
歩 「夕食はちょっといいお肉を買って、お昼から下ごしらえを……」
渚沙 「いやいや、なにか出そうとしてるから! 思い切り褒められて調子に乗ってるから!」
歩 「あら?」
このお姉さんはもの凄くしっかりした人なんだけど、こうしてたまに茶目っ気を見せる。
完璧超人なら反発を覚える人もいるだろうに、こんな風に面白い人だから、歩さんの周りにはいつも人が絶えない。
涼太 「…………」
ふと、渚沙と楽しそうに笑ってる歩さんに人差し指を向ける。
“こころえのぐ”――
歩さんに見えないように、小さく指を振って――
渚沙 「リョータ? なにしてんの?」
涼太 「……あ、ああ。なんでもない」
俺は手を引っ込めて、首を振る。
渚沙は俺が“なに”をしてたのかわかったけど――
俺が“なんで”そんなことをしたのかがわからない、といった風だ。
歩 「あらら? 涼太さん、私の顔をじっと見て、どうしたんです?」
歩 「そんなにじっと見ても、さすがに朝食のおかずは増やせませんよ」
涼太 「そ、そういうつもりじゃ……」
歩 「私を夜のおかずにするのは自由ですけどね」
渚沙 「歩さん! 朝から下ネタはダメ!」
まったくだ……。
茶目っ気はいいけど、割と下ネタもためらわないのは玉に瑕なんだよなあ。
歩 「渚沙さんは厳しいですね」
歩さんはそんなことを言いながら、微笑んだ。
……歩さんは、さっきからずっとにこにこ笑ったままだった。
やっぱり――俺の能力は、歩さんには通じてない。
ということはつまり、“こころえのぐ”は今まで通り、ということだ。
涼太 「うーん……?」
まあ、半ば予想通りではあったんだけど、それじゃあ、昨日の“アレ”はいったいなんだったんだ……?
朝食を終えてから、外へ。
まだ9時にもなってないのに、太陽はぎらぎらと照りつけてきてる。
涼太 「暑い……8月になったら、どうなっちゃうんだ……?」
渚沙 「だったら、外に出なきゃいいのに……」
渚沙 「夏はずっと屋根の下にいればいいのよ。紫外線は有害だし、熱中症は命に関わるし」
渚沙 「命を懸けて外に出る必要がある? いいえ、ないわ」
涼太 「それなら、別についてこなくてもよかったんだけど……」
渚沙 「夏休み初日から一人っきりなんて悲しすぎるでしょ。幼なじみの優しさをありがたく受け取っておきなさい」
ちなみに渚沙語を翻訳すると、夏休み初日からぼっちは寂しいのでとりあえず今日は構え、今日はそんな気分である、になる。
涼太 「受け取ってる、受け取ってる」
渚沙 「気持ちがこもってない!」
涼太 「俺の気持ちは、いつだって渚沙に伝わらない……」
渚沙 「意味もなく、意味深な台詞を吐くなーっ!」
渚沙さんは、この暑さの中でも元気です。
まあ、放っておくとすぐバテるんだけど。……渚沙は本来、屋内大好き、どこに出しても恥ずかしくないインドア派だ。
涼太 「冗談はともかく」
涼太 「俺と渚沙ほど、気持ちを伝えやすい二人もいないだろ」
渚沙 「そ、それはそうだけど……」
渚沙 「そ、そういえばさっき――歩さんに能力を使ってたわよね?」
涼太 「ん? まあ、そう……だなぁ」
能力。
口に出すと馬鹿馬鹿しい響きでもあるけど……。
実際に、そんなものを持ってるんだから仕方ない。
俺の能力は、“こころえのぐ”。
他人の感情を操作する能力。
今朝の渚沙みたいに、怒り狂ってる人を突然脈絡もなく笑顔にしたり。
もちろん、その逆もできるし、突然涙を流させたりもできる。
まあ、記憶を操作できるわけじゃないし、感情もすぐに元に戻っちゃうから、基本的には一時しのぎにしかならない。
そして渚沙の能力は、“ひみつでんわ”。
こっちは俺のよりずっとわかりやすい――いわゆるテレパシーだ。
渚沙が任意のタイミングで、他人の心に話しかけることができる。
だいたい、内緒話をするときに使うことが多い。
ただ、俺や渚沙の能力は――
渚沙 「なに考えてんの? あたしらの能力は、他の人には通じないのよ」
渚沙 「昔から何度も何度も試して、確認してきたでしょ。記憶がバカになったの?」
涼太 「わかっちゃいるんだけど……」
そう、この能力は俺や渚沙、幼なじみ同士でしか使えない。
歩さんのようなよく見知った人だろうと、まったく知らない通りすがりの人だろうと通じないし、家族が相手でも無理だ。
能力は物心ついた頃から使えるけど、これは何度も試して確認してきたことだ。
渚沙 「なによ、いったいなにがあったの?」
涼太 「うーん……」
昨日の一件を、渚沙に話したもんかなあ。
これまで絶対に誰にも通じなかった能力が――
あの、神宮りんかって女の子には、なぜか通じた。
今朝、渚沙には通じたし、歩さんには通じなかった。
なにか能力がおかしくなったかとも疑ったけど、そうでもなさそうだ。
となると――
ううーん、なんなんだ? 正直、もうまったくわからん。
わからないから、散歩でもしながら考えようかと思ったんだけど、渚沙に相談するのはちょっと悩む。
俺の能力だけに異常が起きたならまだしも、渚沙の能力にまで変化があったりしたら――
渚沙 「だからなによ、なにを一人で唸ってるのよ」
こいつ、意外とへっぽこだからな……。
突発的なトラブルに弱いというか。
変な話を聞かされると、しばらく夜も眠れないかもしれない。
涼太 「そのうち話す。……ちょっと待っててもらえないか?」
渚沙 「……わかったわ」
さすがに付き合いが長いと話が早い。
無理矢理聞き出そうとしても、俺が話さないと察してくれたらしい。
どのみち、俺もずっと黙ってる気はないしな。
今は理解のある幼なじみに感謝しつつ、もうちょい考えてみよう。
(to be continued…)